郷右馬允義弘の由来

 堺には、今からおよそ1500年前の西暦401~500年(5世紀)の古墳時代に、鍛鉄技術が伝わりました。
 平安時代末期ごろより刀製造として引き継がれたこの技術は、やがて煙管用のたばこを刻むたばこ包丁として、その名を世に知らしめました。

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義弘ものがたり

|名刀三作

 室町時代から、代々刀鑑定を家職とする本阿弥家の光悦は、その書「亨保名物帳」の中で、"世に名刀が三作ある"という。
 「相州五郎入道正宗」、「栗田口藤四郎吉光」、「郷右馬允義弘」の、三名とその作刀である。大名家は、この名刀を併せて三作とも所持しないと、大名家としての格式を保てないとも言われていた。

|正国の苦悩

 時代は下り江戸時代末期に、摂津の住人にして、正国という刀匠がいた。予てより、郷右馬允義弘にあこがれ、何とかその作風に近づきたいと日夜努力するも、とても叶わない。失意の日々が続いた。
 そんな折、正国は泉州住吉の大社に詣でる機会が訪れる。大社で、所在なく池の中を眺めるに、3匹の亀が水中で華麗に戯れる不思議な様を見ることになる。

|ある夜の夢

 その夜半、正国は夢を見る。夢の中では、あの3匹の亀が再び現れ、虚空をくるくる舞う。やがて、スゥーッと鶴にその姿を変え、北陸道へと飛び去ってゆくのであった。
 正国、作刀の秘宝を見つけたり。その日より寝食忘れ、鍛刀に精を出す。
 水中の亀のようになめらかに、空中の鶴のように優雅にて、鎚を打ち下ろすべし。やがて出来上がりの一口は……。

|自ら名乗る

 やがて出来上がりの一口は、素晴らしい上物にて、これぞ右馬允の技術そのものと正国は確信する。
 以降、郷右馬允義弘引継と自ら名乗るのであった。
 その後、泉州住吉大社吉方に住まいを移し、作刀に精を出すが、郷の在名刀は皆無の物から、ただ中子に正国とのみ入れる。

|本焼き包丁

 二代目正次、能く父の奥義を引継ぎ、昭和5年山脇山人の筆頭職人となってよりは、作刀のみならず、泉州伝統の本焼き包丁を製作するに至る。

|三代目

 三代目博次の時、昭和25年山脇刃物製作所の代表銘柄として郷右馬允義弘を登録し、本焼き包丁、本鍛錬包丁に広く刻銘し、現在に至るものである。